ショパンの「別れの曲」は、練習曲作品10第3番ホ長調の通称です。穏やかな旋律の間に、重音が激しく動く中間部を持ちます。
題名が広まった経緯と原曲の構成を分け、冒頭の声部、中間部の6度の重音、旋律の帰還まで読み解きます。有名な旋律だけを知っている人にも、一曲を通して聴く目印と、原曲が難しい理由が分かるように整理します。

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ショパンの別れの曲は練習曲作品10第3番
原曲はショパンがピアノ独奏のために書いた練習曲で、作品10の12曲のうち第3番に当たります。ホ長調、4分の2拍子で、歌う旋律と複数の声部の弾き分けを中心にした作品です。
練習曲はエチュードとも呼ばれ、演奏上の課題を扱う曲の種類です。ただし、ショパンの練習曲は単に同じ指の形を訓練するためだけの音楽ではありません。一つの技術的な課題を、旋律や和声の展開と結び付け、一曲の表現として成立させています。本作では、速い指の動きだけでなく、一台のピアノの中に異なる役割の音を同時に聞かせることが重要になります。
Op.10 No.3という表記のOp.は作品番号を意味します。作品10という組の中の3曲目であり、ショパンが生涯で3番目に作曲した作品という意味ではありません。楽譜や録音では「Étude in E major」「Op.10 No.3」と書かれることもあるため、日本語の通称が出ていなくても、作品番号と調が一致すれば同じ曲を探せます。
ホ長調は、ミの音を中心とする長調です。楽譜の調号にはファ・ド・ソ・レを半音上げる四つの♯が付きます。長調であることと、聴いたときに明るい気持ちになることは同じではありません。長い旋律の運び方、途中で変わる和音、音の強さや間の取り方が重なり、穏やかさや切なさなど、さまざまな印象が生まれます。
ピティナ・ピアノ曲事典は1832年8月25日の作曲と記し、モーガン・ライブラリーの自筆資料の解説でも1832年8月と1833年の刊行が区別されています。作曲と刊行は1830年代、日本で通称が広まる映画の時代はその約100年後です。由来を読むときは、作品成立と通称の普及を別の時期として扱います。
題名の由来は映画の邦題と日本での受容
「別れの曲」はショパンがこの練習曲に付けた原題ではありません。1930年代の映画『別れの曲』と結び付いて、日本で広く定着した呼び名です。

ピティナの作品解説は、1934年のドイツ製作の伝記映画でこの音楽が使われたことを、通称が定着した背景として挙げています。また、大阪音楽大学の研究紀要に掲載された西村理の論文は、映画が1935年6月13日に東京や京阪神で封切られたことを、当時の『キネマ旬報』に基づいて記しています。1934年という映画の年と、1935年の日本公開を分けると説明が整います。
海外ではTristesseという愛称で紹介されることもあり、フランス語で悲しみを表す言葉です。これも作品を探す際の手掛かりになりますが、原曲の識別には作品10第3番という番号が役立ちます。日本語名と外国語の愛称を互いの厳密な訳とみなすより、同じ音楽に異なる文化の中で付いた呼び名として整理すると混乱を避けられます。
「祖国との別れ」「恋人との別れ」といった連想で聴くこと自体は自由です。しかし、通称だけを根拠に、特定の相手への別れを描いて作曲されたと断定することはできません。作品の成立を説明する事実と、聴き手が旋律から受け取る情景を分けておくと、物語を楽しみながら音楽そのものにも耳を向けられます。
「別れのワルツ」とは別の作品
「別れの曲」作品10第3番と、「別れのワルツ」と呼ばれる作品69第1番は別作品です。前者は練習曲、後者はワルツで、作品番号だけでなく曲の種類も異なります。
録音一覧で「Farewell」や「別れ」という文字だけを頼りにすると、この二つが混ざることがあります。本稿の対象はホ長調の練習曲で、穏やかな冒頭の中に細かな伴奏が織り込まれ、中央に激しい重音の部分が現れる曲です。検索では「ショパン別れの曲Op.10-3」を一緒に使うと対象を絞れます。
また、歌手が歌う「別れの曲」や、映画の音楽として編曲された録音では、原曲の旋律が使われていても、調や伴奏、長さが変わる場合があります。ピアノ独奏の原曲を知りたいときは、演奏の編成と作品番号を確認します。映画DVDそのものや、別れを主題にした歌謡曲を探すこととは、必要な情報が異なります。
原曲の構成はA・B・Aの三部形式
原曲は、歌うA、中間部B、Aの帰還からなる三部形式です。小節の区分ではAが第1〜21小節、Bが第22〜61小節、帰還が第62〜77小節と整理できます。
三部形式は、最初の音楽を、異なる性格の中央部分を挟んで再び示す構成です。本作の中間部は短い飾りではなく、曲の大きな部分を占めます。冒頭だけを抜き出した紹介や簡単な編曲を聴いていた人は、原曲を通して聴くと、想像より激しい部分が長く続くと感じるかもしれません。
| 部分 | 小節の目安 | 聴き取る目印 |
|---|---|---|
| A:主題 | 1〜21 | 長い旋律を内側の細かな伴奏が支える |
| B:中間部 | 22〜61 | 動きが増し、響きが変わり、重音の頂点へ向かう |
| Aの帰還 | 62〜77 | 冒頭の歌とホ長調の落ち着きが戻る |
ここでの小節数は、冒頭の短い弱起を独立した第1小節とせずに数える整理です。弱起とは、最初の強い拍より前に短く始まる音のこと。譜面の最初の不完全な小節を一つとして数えると、後の小節番号が一つずれてしまいます。別の資料で番号を探す場合は、数字だけでなく、poco più animatoやa tempoなど、同じ場所の言葉も目印にします。
この地図では、Bを「全部同じ激しさ」とまとめないことが大切です。最初は動きが少し増える場所があり、そこから緊張が高まり、6度の重音を両手で動かす頂点へ進みます。さらに、その後は主題へ戻るために響きと動きを落ち着かせます。一つの中央部分の中にも、入口・頂点・戻り道があります。
帰還のAも、最初の21小節をそのまま全部繰り返す作りではありません。曲を始めたときには先へ開いていた主題が、最後には終わりへ向かうものとして聞こえます。A・B・Aという記号は骨格を捉える道具であり、同じAなら音楽の役割まで完全に同じだと決めるものではありません。
聴く順番は旋律・頂点・帰還の三つを先に押さえる
最初の鑑賞では、美しい旋律、激しく重なる音、旋律の帰還という三つの目印だけを探すと全体を追いやすくなります。二回目に、その間で何が変わるかを聴きます。
音符を読まずに聴く場合は、冒頭の旋律を口ずさめる程度に覚え、中央でその旋律が前面から離れることを確かめます。激しい部分の後、最初に覚えた歌が聞こえたら、それが帰還を見つける入口です。録音ごとに演奏時間が違っても、旋律の輪郭という目印は使えます。
譜面を併用する場合は、第22、第46、第62小節に仮の付箋を置くと、中央の入口、頂点、帰還を往復できます。最初から全ての臨時記号を読むのでなく、各地点の音の密度と旋律の置き方を見比べます。細かな読譜の前に大きな役割をつかむと、一つの難所を曲全体のどこに位置付けるかが明らかになります。
冒頭の美しさは旋律・内声・低音の三層でできている
冒頭では、上の旋律、内側を動く伴奏、低音の支えを同時に聞き分けることが重要です。右手が旋律だけを弾くわけではなく、同じ手の中に違う役割が入っています。

声部とは、音楽の中で一つの線として追える音の流れです。歌の合唱なら別の人が担当する線を、ピアノでは一人の奏者がまとめて受け持ちます。本作の冒頭で旋律だけを追うと、長い音が続くように聞こえますが、楽譜を見ると、その音の下で別の音が細かく動いています。外側の歌と内側の運動が、同じ時間に重なっています。
内声は、最も高い旋律と最も低い音の間にある声部のことです。目立たないから不要なのではなく、和音の色や音楽の流れを支えています。上の旋律と同じ強さで全ての内声を鳴らすと、聞き手はどの線を追えばよいか迷います。逆に内声を消しすぎると、旋律の下で続く細やかな動きが失われます。
右手の中で音を分けるには、音符の符幹の向きや、長さを読み分けることが役立ちます。符幹は音符から伸びる棒で、異なる向きの棒が声部の違いを示す場合があります。同じ場所で重なって見えても、全てが同時に離してよい和音とは限りません。長く保つ旋律音と、次へ動く伴奏音を区別して読みます。
左手にも、低い支えとその後の動きがあります。両手を「右が歌、左が伴奏」という二つだけに分けると、この曲の織り方を十分に説明できません。旋律を担当する音をまず一つの線として追い、次にその間を埋める音、最後に低音の変わり目を聴くと、一台の中にある層が見えてきます。
この構造は、旋律が止まって聞こえる場所でも音楽が動き続ける理由になります。長い音の下で伴奏が変われば、同じ旋律音の意味合いも変わります。歌を美しく聞かせるのは、旋律だけの音色ではありません。その下にどんな響きがあり、どのくらいの重さで支えられるかまで含めて、冒頭の表情が作られています。
レガートは長い音と動く音をつなぎ分ける課題
レガートは、音から音へ滑らかにつなぐことです。この曲では旋律のつながりを保ちながら、内声を必要以上に重くしないことが課題になります。
上の旋律の音を長く保つ間に、下の指は次の伴奏音へ動きます。そのため、右手の全ての指を同時に押し、同時に離す動作だけでは譜面の役割を再現できません。旋律の指が残る時間と、内声が交替する時間を別々に感じる必要があります。ゆっくりでも難しいと言われるのは、この独立した動きを一つの手で扱うためです。
練習では、まず上の旋律だけを取り出し、音の長さと行き先を確かめます。次に内声だけを小さく弾き、旋律を心の中で聞きながら重ねます。いきなり全ての音を同じ強さで並べ、後から旋律だけを足そうとすると、手の重さの配分を作り直すことになります。最初から役割別に読む方が、何を前へ出すかが明確です。
ペダルは響きをつなぐ助けになりますが、手で保つべき長さを何も考えなくてよい道具ではありません。低音や和音が変わるところで踏み続ければ、前の響きまで残り、旋律の下が濁ることがあります。手だけのつながりとペダルの残響を区別して聴くと、音が切れる原因と、音が重なりすぎる原因を別に探せます。
一音を十分に歌わせることと、その音を強く押し続けることも違います。ピアノは一度鳴った音が減衰していく楽器です。次の音へのつながり、伴奏の大きさ、ペダルによる響きの組み合わせで長い線を感じさせます。強く打つだけでは音の硬さが増すため、歌を目立たせる方法を音量一つに限定しないことが大切です。
中間部は響きと運動を変えて緊張を高める
第22小節からの中間部では、冒頭の歌を中心とした書き方から、動きと和声の変化を前へ出す書き方へ移ります。激しさは最初から一定ではなく、段階を踏んで高まります。
構成上は第22小節からBと整理しますが、poco più animatoの指示はそこへ向かう第21小節後半にあります。poco più animatoは、「少し、より生き生きと」という意味です。冒頭と全く無関係な速い曲へ切り替えるというより、それまでの静かな表情の内側にあった動きが、外へ出てくるように捉えるとつながります。原曲を聴くときは、音数が増えることだけでなく、短い動きの応答や強弱の変化も追ってみてください。
和声は、複数の音で作る響きとその進み方のことです。中央部分では調の中心が動き、臨時記号が増えます。転調とは、音楽の中心となる調が変わること。冒頭のホ長調の安定した印象から離れるほど、耳は落ち着く先を探すようになり、運動の増加と一緒に緊張を感じやすくなります。
臨時記号は、その位置で音を上げ下げしたり元へ戻したりする記号です。中央の譜面が複雑に見えるのは、単に黒い音符が多いからではありません。似た形が繰り返されながら、必要な音の高さが細かく変わるためです。記号が変わる音をたどると、冒頭の安定から離れていく響きの材料を譜面上でも探せます。
聴く側には、この動きが、穏やかな旋律の対照として働きます。冒頭と同じ柔らかさを中央全体へ当てはめると、曲の山が見えません。逆に最初から最も大きな音で考えると、後の頂点へ向かう余地がなくなります。入口の動き、緊張の増加、重音の頂点を別の段階として聞くと、中央部分に方向が生まれます。
中間部が難しい理由は6度の重音と両手の反行
特に第46〜53小節では、6度の重音を両手で動かし、左右が反対方向へ進む書き方が現れます。二音をそろえたまま、位置と音の形を次々に変えることが難所になります。

重音とは、片手で二つ以上の音を同時に鳴らすことです。ここでいう6度は、二つの音の高さの隔たりを数えた音程です。たとえば白鍵のドからラまでを、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラと両端を含めて数えると6度になります。実際の中間部には臨時記号による変化がありますが、「6」という数字が示すのはこのような高さの関係です。
6度を6連符と混同しないことも重要です。6連符は一まとまりの時間を六つへ分けるリズムの書き方ですが、この難所の6度は上下の音の距離を示します。第46小節付近では十六分音符の動きの中に重音が並びます。一つの打鍵の時点で二音が鳴り、その二音の組が次の時点で別の位置へ移る、という二段階で読むと仕組みが分かります。
単音の速い音階なら、一つの指で鳴らして次の指へ渡す動きが基本になります。重音では、同時に鳴る二つの指をそろえ、その両方を次の位置へ運ばなければなりません。上の音だけ先に出たり、下の音だけ遅れたりすると、意図せず二つに割れて聞こえます。速度を上げる以前に、二音が一つの動作としてそろうかが課題です。
さらに、両手が同じ方向へ同じ形で動くだけではありません。反行とは、一方が上がるときに他方が下がるような、逆向きの進行のことです。中央の頂点では、左右を鏡のような関係で追う必要があります。片手の位置を目で追い続けると、もう片方の手の準備が遅れやすく、両手の移動を一つの見通しとして捉える負荷が加わります。
鍵盤上では、♯や♮、ダブルシャープなどによって、似た譜面の形でも白鍵と黒鍵の組み合わせが変わります。♮はナチュラルといい、音の上げ下げの変化を取り消す記号です。ダブルシャープは、元の音から半音二つ分を上げる記号です。二音の間隔を同じ見た目のまま機械的に運ぶと、鍵盤の奥行きや手の向きの違いに対応しにくくなります。音程の理解と実際の鍵盤位置の確認を結び付ける必要があります。
第46小節に置かれたcon bravuraは、華やかに、堂々とした技巧をもってという性格を表します。難しいからといって一音ずつ固まってしまうと、この勢いが伝わりにくくなります。一方で、力任せに押せば解決するわけでもありません。二音のそろい、移動の準備、左右の関係を整えた結果として、まとまった運動が聞こえることが目標になります。
| 重なる課題 | 譜面・動きの特徴 | 難しくなる理由 |
|---|---|---|
| 片手の同時性 | 6度の二音を一緒に鳴らす | 二本の指の発音をそろえる必要がある |
| 位置の変化 | 重音の組を連続して移す | 次の二音をまとめて準備する必要がある |
| 両手の関係 | 左右が反対方向へ進む | 一方だけを追う視線では全体を捉えにくい |
| 音の読み替え | 臨時記号で鍵盤の組み合わせが変わる | 似た形でも同じ手の位置で済まない |
手の大きさだけで難しさは決まらない
6度の重音は手の大きさにも関係しますが、届くことと連続して軽く移れることは別の課題です。指使いと移動の準備を含めて考える必要があります。
止まった状態で二音に届いても、その位置を力で広げたまま次の組へ移ろうとすれば、動きは重くなります。逆に、見た目の幅が同じでも、黒鍵を使う位置では手の角度や前後の位置が変わります。「何センチ開けば必ず弾ける」という一つの条件に置き換えることはできません。
ピティナの演奏のヒントには、手の小さい奏者を想定した音の分担や指使いの提案もあります。ただし、提案は全ての奏者に共通の唯一の運指ではありません。運指とは、どの指でどの音を弾くかという計画。手元の譜面にある指番号を出発点にし、音のつながりと移動に無理がないかを、指導者と確認する余地があります。
譜面の上下の段と左右の手の分担が、常に一対一とは限らない点にも注意します。ある音を別の手で助ける工夫は、音楽の内容を変える編曲とは異なる場合があります。ただし、自己流で受け渡しを増やして旋律や重音のそろいを失えば本末転倒です。分担を変える目的を、届かせるだけでなく、必要な音を必要な長さと強さで出すことに置きます。
難所は重音の形・拍・連結に分けて読む
中間部を確認するときは、先に二音の形を読み、次に拍の中の位置を決め、最後に前後をつなぐと課題を分離できます。通して速く弾くことだけでは、どの段階が崩れたかを判別しにくくなります。
第一段階では、片手ずつ、同時に鳴る二音だけを静かに置いてみます。上の音と下の音を別々に読んでから、二音を一組として鳴らします。臨時記号で変わる音には短い印を付け、前の組と何が違うかを確かめます。この時点では速さを目標にせず、組の中の二音がそろうかを聞きます。
第二段階では、その二音の組が拍のどこへ入るかを数えます。4分の2拍子は一小節二拍、十六分音符なら一拍を四つに分けます。したがって基本の区分は、一小節に八つの時点です。二音の組が八つ並ぶ場所を、十六個の独立した時点として数えないことが、重音のリズムを読む助けになります。
第三段階では、片手の二組だけをつなぎます。二組を弾いたらいったん止まり、最後の位置で次の移動先を確かめます。止めるために毎回大きな力を入れるのではなく、次の形を確認できる遅さを選びます。位置の変化を追えたら、開始位置を一組ずらし、いつも同じ二組の区切りに頼らず接続できるかも確かめます。
両手を重ねる段階では、右手の行き先と左手の行き先を一対として言葉や印で整理します。どちらかの手が下がるとき、他方がどこへ上がるのかを、短い範囲で対応させます。左右別々では弾けるのに一緒になると止まる場合には、音の知識より、両手の位置変化を同時に準備する段階が課題だと判断できます。
短い範囲ができた後は、その前の音と次の音を一つずつ足します。難所の中央からだけ弾けても、曲の流れの中で最初の形へ入れなければ、通し演奏では再び止まります。第46小節から始める練習と、その直前から入る練習を分けることで、重音そのものの課題と、入り方の課題を区別できます。
確認の結果も、速かったかどうかの一語にしない方が役立ちます。「二音が割れた」「左の移動だけ遅れた」「臨時記号を一つ戻し忘れた」のように、次に直す対象を一つ残します。これなら繰り返しの目的が定まり、全曲を何度も弾いた回数だけで練習の進み具合を測らずに済みます。
頂点の後は動きをほどき、旋律の帰還へ進む
第46〜53小節の頂点が終わった後、音楽はすぐ冒頭へ飛ぶのではなく、動きと響きを落ち着かせて帰還を準備します。第62小節のa tempoで主題が戻ると、最初の歌が違う重みで聞こえます。

第54小節にはlegatissimoという、特に滑らかにという指示が見られます。中央の激しい運動を経験した後で音をつないでいくため、この言葉は冒頭の穏やかさをただ再現する以上の役割を持ちます。まだ細かな動きが残っていても、どの音を線として聞かせるかを替えると、頂点から戻る方向が見えてきます。
帰還に近づくところのpoco rallentandoは少しずつ遅く、smorzandoは音勢を弱めて消えるように、という意味です。両方をまとめて「全部の音を急に小さく遅くする」と扱うのではなく、進行をほどきながら音の勢いを収める過程として聞きます。急に休止したわけではないから、次の主題へのつながりが生まれます。
a tempoは、変化させた速度から、それまでの基準となる速度へ戻す指示です。第62小節でこの言葉を見つければ、耳だけで帰還を探した位置と、譜面の構成を対応させられます。主調、つまり曲の中心となるホ長調が戻り、冒頭の旋律が再び前面に出るため、中央で離れていた場所へ帰ってきた感覚が生まれます。
帰還を聴くときは、旋律が同じだから注意を止めるのではなく、その先がどのように終わりへ向かうかを追います。最後は第77小節のホ長調の和音へ落ち着きます。激しい中間部の後にこの終わりがあるため、原曲全体を聴く体験は、有名な冒頭だけを繰り返し聴く体験と違っています。
全曲を聴いた後は、調が離れるところ、重音の運動が頂点になるところ、主題と主調が戻るところを一つずつメモすると、三部形式の中の方向が残ります。旋律の有無だけで区切った最初の地図へ、響きと運動という二つの観点を足せるので、次に聴くときに中央の変化をより細かくたどれます。
遅い曲でも難しい理由とテンポの読み方
冒頭が遅く聞こえることは、原曲全体が易しいことを意味しません。旋律の保持と内声の分離、中央の重音、帰還までの表情の設計は、異なる種類の難しさです。
冒頭のLento ma non troppoは、遅く、しかし遅すぎずにという意味です。音と音の間が広がりすぎると、旋律が一つの歌としてつながりにくくなります。ゆっくりとした性格を保ちながら、長いフレーズ、つまりひとまとまりの旋律の行き先を失わないことが必要です。音符を正しい順に鳴らすことと、歌として聞かせることを分けて考えると、この難しさを捉えられます。
参照したHN656の譜面には、八分音符を単位とした100の数字が示されています。これを四分音符100として読むと、一拍の速さが二倍になってしまいます。メトロノームの数字を見るときは、数字の左にある音符の種類も一緒に読む必要があります。版や資料の採用方針による表示差もあるため、数字だけを切り取った速度比較は避けます。
自筆資料に見られる速度の言葉と、刊行本文でのLento系の言葉が異なることも、ピティナの解説に整理されています。自筆資料にはVivaceやVivace ma non troppoという活発さを示す語がありました。これは作品の成立過程を考える手掛かりですが、その一語だけを根拠に、現在使う譜面を無視して全曲を急いで演奏すべきだと結論することはできません。
指導者へ相談する際は、使う版、仕上げたい範囲、目指す表現の三条件を伝えます。たとえば原曲全曲を発表会で弾く目標と、編曲された冒頭の旋律を楽しむ目標では、確認すべき課題が違います。具体的な目標を先にそろえると、今できることと、次に練習することを同じ条件で相談できます。
自筆譜から分かるのは旋律を磨いた過程
自筆譜は、作曲者自身が書いた譜面です。モーガン・ライブラリーの解説では、本作の自筆資料と初期の刊行譜を比べ、旋律が修正されていく過程を見られます。
公開解説で挙げられる例の一つが、第8小節の違いです。自筆資料には細かな動きがあり、刊行本文では保持する音と速度を抑える指示を伴う形になっています。曲の歌が最初から一つの完成形で存在したのではなく、音の動きと止め方を選び直しながら形になったことが分かります。
第14小節からの案には二重の×印が付けられ、欄外の二小節へ書き直す形の修正が紹介されています。一般の鑑賞で全ての資料の音符を暗記する必要はありませんが、有名な旋律にも推敲があったと知ると、長い音や小さな動きが持つ役割へ目を向けやすくなります。ゆったりした旋律だから単純に思い付きだけで書かれた、と決め付けないための具体例です。
ただし、これはそのまま市販の楽譜の優劣を決める話ではありません。ある自筆資料が別案を残していても、刊行時にさらに変更された可能性があります。校訂とは、複数の資料を比べて楽譜の本文を整える作業です。原典版は、自筆譜や初版などの資料を比較し、作曲者の意図に近づけようとする楽譜です。複数の資料に異なる形があれば、どの読みを本文に採るかという判断も含みます。別の作品で具体的な比較を追いたい場合は、幻想即興曲の楽譜の版の違いで、同じ小節の指示と音符をそろえる読み方を確認できます。
楽譜選びでは原曲の中間部が収録されているかを見る
原曲を通して理解したい場合は、作品10第3番のピアノ独奏譜を選び、第46小節付近の重音を含む中央部分まで載っているかを見ます。冒頭の旋律だけを扱う編曲とは用途を分けます。
やさしい編曲は、好きな旋律に触れる入口として適しています。調号を減らす、内声を省く、伴奏を簡単にする、中央の激しい部分を短くするなど、工夫の仕方はさまざまです。それ自体を誤った楽譜と考える必要はありません。ただし、この記事で扱う原曲の難しさを確かめる目的なら、省略や変更のない対象が必要になります。
一曲だけ紙で用意する候補は、全音ピアノピース『別れの曲』PP-063です。出版社は収載曲をEtude Op.10-3、ISBNを978-4-11-911063-8と明示しています。別の練習曲もまとめて学びたいなら練習曲集を選ぶ方法がありますが、本稿の曲だけを読む用途なら、このように曲と番号を特定したピース譜が探しやすいでしょう。
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本稿の細かな記号と小節の照合には、ヘンレHN656の公開本文も使っています。紹介した全音版と、指番号、細かなスラー(音を滑らかにつなぐ弧線)、ペダルなどの表記が全て一致するという意味ではありません。曲を選ぶ際には作品番号と原曲・編曲の別を、練習の際には手元で使う一つの版の音符と指示を、それぞれ基準にします。
商品カードは価格と販売ページへ進むための補足です。PP-063のAmazonページは確認時に一時的な在庫切れ表示だったため、急いで紙の譜面が必要な場合は、出版社の案内や楽器店で同じISBNの取り扱いを確認する方法もあります。本文に固定した販売価格や入荷日を約束せず、同じ曲名の別商品へ取り違えないことを優先します。
譜面のメモを声部用と難所用に分ける
メモを作るなら、冒頭では旋律の線、中間部では重音の組と移動先を中心に残します。同じ色で全てを囲むより、役割ごとに印を分ける方が必要な情報を探しやすくなります。

紙では、冒頭の上の旋律を一つの色でなぞり、内声の全音へ同じ印を付けないようにします。中央では、第46〜53小節を一つの難所として示したうえで、特に形が変わる二音の組だけ囲みます。全ての音へ注記するのではなく、「旋律を追うための印」と「次の位置を準備するための印」を別にすると、見返す目的が定まります。
手元で利用できるPDFや画像なら、EMMU Scoreの楽譜の取り込み・書き込みの案内を使い、取り込んだ譜面の書き込みセットを分ける方法もあります。声部を読むセットと難所を練習するセットを切り替える用途です。PDF・画像は表示と書き込みの対象で、取り込むだけで音符へ自動変換して原曲を再生するものではありません。
別れの曲のよくある疑問
通称、歌詞、難易度を区別すると、同じ名前の別作品や編曲との混同が減ります。原曲の識別には作品番号、曲の理解には中央まで含めた全体の構成が役立ちます。
「別れの曲」という曲はありますか?
あります。ショパンの練習曲作品10第3番ホ長調を指す通称として、日本で広く使われている名前です。
原曲に歌詞はありますか?
原曲はピアノ独奏曲で、歌詞はありません。歌詞のある歌として聴いた場合は、この旋律を用いた編曲です。
冒頭がゆっくりなら初心者にも弾けますか?
原曲は速度だけで判断できません。冒頭の声部の弾き分けと、中間部で両手の6度の重音を動かす課題があります。
出典・参考資料
- G. Henle Verlag:Etude E major op.10 no.3(HN656):作品紹介、公開試し読みの冒頭・重音の頂点・帰還。
- ピティナ・ピアノ曲事典:練習曲第3番「別れの曲」:成立、題名の背景、構成、速度指示と演奏上の課題。
- The Morgan Library & Museum:Chopin’s Étude in E Major:自筆資料と初期刊行譜の旋律の比較。
- 西村理「戦前・戦中におけるJOBKの放送オーケストラ」:大阪音楽大学研究紀要第53号、15頁。映画の1935年日本公開を扱う箇所。
- 全音楽譜出版社:別れの曲PP-063:収載作品、商品番号、ISBN。
- Deutsche Grammophon:ショパン練習曲・バラード録音の作品案内:Tristesseの呼称例。
- ピティナ・ピアノ曲事典:ワルツ第9番「告別」:作品69第1番の識別。
- EMMU Score完全ガイド:取り込み形式と書き込みセット。
情報確認日:2026年11月1日。






